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前回は「嫌われ松子の一生」のパロディーであり、毎回私小説のパロディーで通そうとしていたら、実は「嫌われ松子の一生」、私小説ではなかった。なんか恥かいた。:印字頭’Z

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前回は「嫌われ松子の一生」のパロディーであり、毎回私小説のパロディーで通そうとしていたら、実は「嫌われ松子の一生」、私小説ではなかった。なんか恥かいた。

 と、真面目なプロローグを書いたところではあるが、基本的には阿呆な話である。
 しかしこうして私小説を書こうとすると、迷うのは一人称である。自分のことをなんと呼ぶか、これが難しい。例えば小生物語で有名な乙一先生は「小生」であるが、いくら自分が小さな人生を送っているといってもこれは使いづらい。何故かといえば後追いになるからである。しかしよくよく考えてみると、どの一人称も誰かが使ったものである。当然である。ところで語尾があるだからといって中国人というわけでもない。自分は日本人でアル。似非日本人のようになってしまった。
 自分がいつも使っているもの、といえば下の名前である。「賢治(仮)、お金超欲しい」とか普段から言っているのである。嘘である。「俺」である。「俺俺、俺だけどさ、交通事故起こしちゃってお金が居るからこの口座に四百万振り込んで」とか電話でよく言っている。それはやはり嘘である。
 こうやって書き物をするときには自分を良く使う。しかし小説のようなものを書いているときは「僕」や「私」が多い。どちらも昔使ったことがある。「私」は使いやすそうではあるが、かつて「私」を使ったところ、「女みたい」と言われたので使いづらい。以来「私」を使うことには抵抗がある。僕、という歳でもない。自分、僕っこではない。嘘である。いやそれこそが嘘である。
 そうすると、残されたものは一つしかない。そう――拙者である。
 よくよく考えてみると母親は忍びの里、三重県上野市の出である。これはもしやぴったりではないだろうか。しかし更によくよく考えてみると、母親は一時期そこに住んでいただけで実は忍びの血を引いていなかった。拙者、がっかり。
 しかし、拙者というものは案外楽しいものである。以降、このカテゴリでは拙者で通そうと思う。カテゴリとか、いきなりカタカナが出てきて拙者、びっくり。
 これからは普段も、自分のことを拙者と呼んで欲しい。街角で見かけたとき、友人が声をかける。「おーい、拙者ー」。
 うむ、なんか凄い。嘘であるが。

次でやっと本題だよ! 嘘だよ! 嘘じゃないよ! どっちだ!
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